お安く気軽にゆるっと16番

HOや16番の金属工作を最小限の工具と労力でゆるっと楽しんでいます。皆さんも是非やってみて下さい。

千曲川とC56・飯山線

上越線越後川口から信越本線豊野まで、白根山山麓千曲川に沿ってC56が走っていました。
f:id:kotetsu8620:20230909213857j:image

千曲川を右に見て、新潟県へと向うC56。

 飯山線は戦時中に飯山駅から越後川口駅までの区間を営業していた飯山鉄道を、鉄道省が買収した路線で、冬場の豪雪地帯を走る地域の公共輸送手段でした。

力走するC56。

 C56の牽引定数いっぱいでしょうか? 豊かな農業地帯を走る貨物列車が有蓋車中心の編成なのが分かります。地域への物資の搬入と、地域の産物の搬出をC56は担っていたのでした。

藁葺き屋根の脇を走るC56。

 機関車の次位には無蓋車のトラがつながれています。トラは水に濡れても良い砂利や石炭、鉄骨やコンクリート製品、丸太等の他、有蓋車に収まらない長尺の貨物に広く利用されていました。製材等の水濡れを嫌う貨物には、シートを被せて使用しました。トラの次の貨車は側板が全てスライドして開閉するワムで、貨物駅での荷役を機械化するために、フォークリフトが使用できるように発案された貨車で、これも蒸気機関車時代の末期には、ごく普通に見られた貨車のひとつです。

途中の駅で貨車を解放し、短編成となった貨物列車を引いて軽々と進むC56。

 C56は10‰勾配までなら、250トンの列車を時速30キロで牽引でき、小単位の輸送に対して適した機関車でした。 蒸気機関車はボイラーのスチーム発生量によって、時速と牽引力が規定されます。 早く走れば、シリンダーに送るスチームの量が増えますから、牽引定数は反比例して減少してしまいます。 重い列車を高速で走らせた、C53、C59、C62などに大型のボイラーが必要だったのは、高速走行時にそれだけ大量のスチームを必要としたからです。

川沿いに越後へと向うC56。

 温暖化による豪雨災害で、河川増水や土砂崩れにより不通になることが増えている飯山線ですが、洪水災害は、人工の施設に対する直接の被害だけでなく、土壌の流失という損失ももたらします。 農業生産に欠かせない腐葉土は日本のような温帯域では、10年で約1ミリしか増えません。 熱帯域で山火事になると、その後の雨季の土壌の流失で、ジャングルが砂漠化するというのが、洪水被害の深刻さを物語ります。

斜面をウネウネと進むC56。

 新幹線のように直線で山をぶち抜き、谷を埋めて線路を貫くことはなく、山越えをする時は、川沿いに高度を稼ぎ、分水嶺の峠の頂点をようやくトンネルで抜けるのが、蒸気鉄道時代の線路の敷設方法でした。こうしてC56の進む鉄路と周囲の風景を見る時、自然と同居するかのような和やかさを感じます。

駅舎の隣に立派な貨物駅を併設した飯山駅

 鉄道が輸送の中心だった時代の、もっとも当たり前の駅の情景です。飯山駅は飯山鉄道時代の終着駅でしたから、周辺の人と物資の集中する駅だったのでしょう。駅舎の下屋の下に様々な物が置かれ、駅の活気を醸し出しています。 この飯山駅も昭和の末に貨物扱いを廃止し、上越新幹線の開業と共に新駅へと移転してしまいました。

 

上桑名川駅千曲川沿いの無人駅。古枕木の柵とは不釣合な頑丈な待合室が雪の深さを物語ります。

 新幹線開業で、東京へ行くのには便利になりました。しかし、空襲で焼け野原になった東京の復興を支えた地方の底力が今も健在であるのかどうか? 未来を考える時、地方創生こそが日本の生き残りには絶対に必要です。

  撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市