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山陰道をつなぐ汽車・山陰本線

その昔、朝鮮半島を経由して大陸の文化と文明をいち早く取り入れ日本の中で最先端地域であった出雲の国と山陰道蒸気機関車無煙化による消滅とその後の鉄道輸送の衰退は、それ以上の地域の衰えの前兆だったのでした。

雨のプラットフォームに滑り込むD51牽引の普通客車列車。線路近くまで山並みが迫り・僅かな敷地に集落が佇んでいます。 D51の引く長編成の普通列車が輸送量の多い幹線を感じさせます。 

切通しを抜けるC57牽引の普通客車列車。灌漑用の山水の水路配管が切通しを跨いで、斜面を上手に利用する地域の知恵が感じられます。水平線に島根半島が浮かぶ山陰本線

圧力計などの計器がずらりと並ぶD51のキャブ。全ての機器を石炭のエネルギーで賄う蒸気機関車の運転室は、スチームと圧縮空気のバルブが所狭しと並び、蒸気機関車は熟練の技無しには扱えない動力車でした。機関助士になるにも石炭の焚べ方の実技試験を試験施設で合格してから漸く機関車に乗務出来るという厳しい道のりでした。

客車列車を引いて東へ急ぐC57。煙突には集煙装置と言う排煙の方向を変える装置が取り付けられています。集煙装置は箱上の装置の屋根部分に開閉式のシャッターがあり、トンネル内でシャッターを閉じる事で排気を後方に流し、トンネル内での煙の充満を軽減する仕組みでした。 蒸気機関車時代にはトンネル内での乗務員の窒息事故が何度か起きたことから、勾配線区を持つ機関区で考案され取付けられたものです。集煙装置の排煙切換のシャッターもキャブから圧縮空気で操作していました。

駅から出発し加速するD51。良好な燃焼で白煙を吹き上げています。地域の各駅に必要な物資を運び、地域産品を各駅から引き取ってD51は西に東に進みました。当時の鉄道の貨物輸送は車扱い貨物と呼ばれ、貨車1両を借り切って荷主は貨物を発送したのです。ですから汽車の駅には、旅客ホームの他に貨物ホームがあり、貨物の荷下ろしと積込みが日常的に行われていました。D51は駅止めの貨車を切り離し、荷積みの終わった貨車を列車に連結してから発車しました。D51の給水温め器が煙突の前後に設置されたのは、D51の先輩格であるD50型が、温め器をフロントデッキに搭載した為にフロントのオーバーハングが長くなり、入換中に軽い空車の貨車を押した際に脱線させる事故が多発したためでした。D51は大型の機関車ですが、こうした各駅で入換しながら進む貨物列車にはもちろん、新鶴見や吹田などの巨大な貨物操車場でも活躍しました。

木材チップを満載したトラ。木材も鉄道輸送の代表的な貨物のひとつでした。木材は丸太から製材、そしてこのようなチップにまで、各地域で加工されて運び出されていたのです。 経済発展と共に木材は海外調達され、その後、日本の山は手入れを怠った為に、もはや製材が出来ないレベルにまで荒れた地区が多発しています。その時に安いから別の場所から買えば良いという経済性のみの発想では、植樹から伐採まで50年近くかかる林業は維持できません。やせ細った杉や檜が並ぶ山では立ち枯れた木も目立ち、長期的な視野が全くない、日本の行政の底の浅さを感じます。

待ち人が来なかったのか? 発車する客車列車を犬が見送っています。 客車の走るプラットフォームの反対側は貨物用の側線だったのでしょうが、レールは既に引き剥がされて荒れるに任されています。 少しずつですが着実に進んだ鉄道輸送の衰退は、確かにトラック輸送に代替されていったのですが、その後、国際競争力という一側面だけで切捨てられた地方の産業の多くは、別の生業を見つけることも出来ずに、多くは廃業して地方の過疎化が始まったのでした。そして車扱い貨物が駅から消えると同時に、鉄道の駅そのものも、急速に地域の拠点としての位置付けを失い、鉄道全体の衰退につながったのです。

海岸沿いの山の麓を走るD51。山側の石垣の上には雪崩防護柵が築かれ、冬場の厳しさが伝わります。 D51が最後の活躍をしていた頃は、まだ貨物の鉄道輸送が地方でも生きていた時代でした。

機関庫に休むD51群。1台で10‰の勾配でも1000トンの貨物列車を牽引出来る能力を持つD51は山陰本線西部の浜田機関区、長門機関区だけでも合計30両近くが配置されていました。D51の居た頃、山陰本線出雲大社に観光客を運ぶだけの路線ではなく、地域の物流の動脈として機能していました。

列車の通過する合間を抜って、線路の砂利を突き固める保線区員。風雨をいとわずに続けられる保守作業が、蒸気機関車の引く列車の安全を支えていました。

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市