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首都圏の貨物線 新鶴見のD51。

日本3大操車場と言われた新鶴見操車場では1970年までD51が使われました。大都会の片隅で貨物輸送に活躍したD51の姿を御覧ください。

横浜港方面からの貨物を受取り、新鶴見操車場へと向かうD51。

 操車場とは、貨車1両を荷主が借り切った車扱いと呼ばれた貨車を、輸送の拠点で行先別に仕分けする広大な車両基地を意味します。 新鶴見操車場は関東最大の貨車の仕分け基地で、勤務する鉄道員の数は1000人を超え、新鶴見駅長の地位は、東京駅駅長と同格以上と言われる程の重要な施設でした。

東海道線の電車とすれ違うD51。東海道本線の貨物専用線の設置は早く、D51の通る線路は横浜港へのポートトレインが廃止されてから、旅客列車が走ることはありませんでした。この区間最後のポートトレインの牽引機は8620で、優れた曲線通過性能からポートトレインには最適の機関車だったのでしょう。 

 D51が電化で消える頃には、写真のように石油タンク車などの割合が増え、一般の車扱い貨物がトラック輸送の普及により減少した事が見て取れます。

 重油タンクをテンダーに積んだD51。  新鶴見には、無煙化の進んだ地方の幹線から好調なD51が転属してきていました。重油タンク装備機は東北や甲信越から来ていました。

 引かれているボギー貨車・ワキ1000は小荷物専用の貨車として専用の編成を組み急行貨物として使われた貨車です。車内の電灯や暖房まで装備した豪華な貨車でしたが、これも小荷物輸送の減少で一般の車扱いとなり、この頃は穀物のバラ積み輸送に使われていました。穀物専用のホッパー車には専用の荷役設備が必要な為、設備の無い貨物扱い駅へと向かうのでしょう。扉周りが粉っぽく汚れています。

穀物ホッパーを引くD51。

一般の車扱い貨物の減少に対して、国鉄は専用列車とコンテナ輸送に貨物列車の未来を託しました。種々雑多な貨車を連ねて、操車場で仕分けする、明治以来の鉄道貨物列車の在り方が大きく変化していったのです。

車扱いの雑多な2軸貨車からなる昔ながらの貨物列車を引くD51。

有蓋貨車の駅での荷役は、もっぱら人力でしたが、フォークリフトの普及により、有蓋貨車の扉サイズは拡大し、両開き扉を経て、側面が全てスライドするワム80000へと発展していきました。

車掌車をシンガリに遠ざかる貨物列車。

車掌車は後方の安全確認の為に連結されていたのではなく、停車駅毎の貨車の解結を計画する走るオフィスでした。D51を定時に走らせるのも熟練の必要な仕事でしたが、入換指示書を走る車内で作成していた貨物列車の車掌も集中力の必要な仕事でした。

ホッパー車を従えて奮闘するD51。

写真の左下の線路はシングルスリップと呼ばれる分岐を取り外す工事中のようです。

 東京横浜間の線路は、輸送密度が非常に高いため、明治の鉄道開業以来、幾度となく敷き変えられ、横浜港の臨港線も埠頭が出来る度に変化しました。新鶴見のD51が向かう先の高島駅は、新橋横浜間開業時の最初の横浜駅であった桜木町駅のごく近くにありました。横浜港の貨物取扱が増大したことに対応して設置されましたが、貨物船がコンテナ船中心になった結果、廃止され、今はみなとみらいの一部となり再開発されています。

構内作業員をフロントデッキに乗せて貨物列車を引き上げるD51。

 前方、後方とも視界の悪い蒸気機関車を使っての貨車の入換には、構内員との息のあった機関車の操作が必須でした。しかも入換時には、ブレーキは列車全体には効かず機関車単体だけでしたから、D51が制動時に動輪を滑走させて削るレールの鉄粉は、鯛のウロコほどの激しさでした。 太平洋戦争中の鉄道事故で、機関車の空転がレールを粉砕したという記録を見た時、資材不足、人材不足で保線を怠れば、当然発生する事故だと、D51の削る鉄粉を思い出し納得したものです。

単機回送で鶴見川を渡り、新鶴見に帰るD51。テンダーに乗せた重油タンクがよく分かります。

 歴史ある高島貨物線で、蒸気機関車のラストを飾ったD51。すっかりデゴイチ蒸気機関車の代名詞になったけれど、新鶴見での活躍も忘れられない思い出です。

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市