お安く気軽にゆるっと16番

HOや16番の金属工作を最小限の工具と労力でゆるっと楽しんでいます。皆さんも是非やってみて下さい。

新鶴見のD51。

 

日本鉄道史上、最大の生産数となった傑作蒸気機関車・D51。日本全国に物資を届けるべく、新鶴見操車場や高島貨物線で活躍しました。

重連で西に向うD51。先頭のD51はドーム後に重油タンクを装備しています。長野あたりから来た機関車かもしれません。

 横から眺めるとシリンダーの前方がキュッと詰まった感じがしますが、D51の開発にあたって、長さの短縮は、それ以前の貨物用強力機・D50からの大きな改善のテーマでした。 蒸気機関車は目的地に到着すると、ターンテーブルで前後の方向転換をしますが、D51登場の頃、大幹線以外のターンテーブルは18メートルが標準でD50型クラスの機関車に対しては短い設備だったのです。 全国の貨物列車や勾配区間に投入するには、長さを縮めてD50に匹敵する性能をと言う難しい問題の解結を迫られました。

力行するD51。ほぼ同径のボイラーを持つD50やC61に比較して、D51は顔が大きく感じられます。煙突の前に給水温め器を乗せたことで、フロントデッキ上に給水温め器を置いたD50とC61とは大きく印象の異なるフロントビューになりました。D51でのフロントオーバーハングの短縮は、同じ貨物用強力機であったD50が、推進運転時に空車の2軸貨車を弾き飛ばすと言う運転事故を起こした事への解決策でもありました。ただ、このフロントの短縮は予期せぬ新たな問題も引き起こたのです。それは動輪上の重量バランスが、D50の第1動輪が最も重く、後ろに行くに従って軽くなる、列車の引き出しに対して理想的な軸重配分であったのに対して、D51では第1動輪が最も軽く、第4動輪が最も重いD50とは真逆なバランスになってしまった事でした。

新鶴見に向かって力走するD51。高島貨物線では長大な列車を単機で牽引していました。

 軸重のバランス問題は、D51の新製投入時、D50を中心に運用していた機関区の乗務員からは、空転が激しく使えないとの酷評が寄せられ、D51第1次型のナメクジから、煙突前に温め器を置いた標準型に設計変更する事態となりました。貨物用としての理想を追求したD50と、全長の短縮により、用途を広げようとしたD51の設計思想の相違による問題ではありましたが、乗務員側も安全に定時運行する使命があるのですから、新型機に対しての拒絶も当たり前でした。     勿論、一方ではD51の空転を防止する運転技術の開発も続けられ、定数いっぱいを引き出す際には、一気に加速せず、貨車の連結器がひとつずつ引き合うように緩やかに引き出せば、平坦線で3000トンまでは引き出せるというD51の貨物用機関車としての可能性を立証する実験も行われました。D51の第1次型ナメクジには、動力逆転器が標準で装備され、引出し時の微妙なギア調整が難しかった事も空転発生の原因とされ、以降、新たに製造されるD51は手動式の逆転器が装備されました。

 D51が引く貨物列車が、発車時にガシャンガシャンと次々に連結器を鳴らしていたのは、こんな理由からだったのです。

力強いD51のメインロッドとバルブギア。 ラジアスロッドが引上げられ、後進になっています。

 D51に限らず、蒸気機関車の逆転機は前後進の切替だけでなく、シリンダーに送るスチームの量をバルブで調整する役割がありました。前進でも後進でも、逆転機を目一杯まで動かせば、最大量のスチームがシリンダーに供給される仕組です。 牽引する列車の抵抗が最も重い発車の際には、逆転機を前進いっぱいとして、シリンダーに最大のトルクを発生させます。 一方でボイラーからのスチームの量をコントロールするのが加減弁で、あらかじめボイラー圧力を最大に高めておき、加減弁を徐々に開けていくのが発車の際の操作です。高速運転時は、発車の際のようにトルクは必要がないので、シリンダーに送り込むスチームを減らすためにバルブのスライド量を減らし、動輪の高回転によってシリンダーで消費されるスチーム量を賄う為に加減弁を開ける操作をしました。蒸気機関車はバルブのスライド量を変化させ、ボイラーからのスチームの量を変えることで、シリンダーから発生するトルクを調整していたのです。

白煙をなびかせ新鶴見へ向うD51。

 新鶴見には写真のようにヘッドライトの脇に補助灯を付け、架線注意の表示を付けたD51がいました。 この補助灯はヘッドライトの照度不足を補う為のライトではなく、ヘッドライトが切れた場合に点灯させる予備のライトです。 無煙化のための電化は交流2万ボルトでしたから、蒸気機関車の上部での整備作業を架線の下で行うと、架線に触れなくても絶縁破壊による感電事故の危険があったのです。 架線注意の表示はサンドドームにもあり、注意を促していました。

石油タンク車を牽引するD51。 化石燃料の文明は石炭から石油へと、短期間で転換されていきました。

古枕木を連ねて築堤から人が線路に入らないようにしています。大幹線ならではの工夫です。

太平洋戦争の軍事輸送から、終戦後の復興のための輸送まで、昭和の日本を走り抜いたD51。

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市