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五能線の8620

大正時代の名機と呼ばれた8620が日本海沿いの海岸段丘を走っていました。

ウイスキーダンボールを持ち、唐草模様の風呂敷包みを背負った旦那さんが待つホームに、夏場の臨時列車かっぱ号を牽引して8620が到着。ステキな女性たちが立つとフラットホームが華やぎます。

イケメンの機関車助士。快速かっぱ号は花形列車ですから乗務員も気合がはいります。 8620の丹念に作り込んだキャブには、大正時代に輸入機関車に負けない車両を作ろうとした技師と製造所の心意気が感じられます。そして8620は、送り出した人々の期待に応えるように長く活躍したのでした。

深浦↔弘前の列車表示も誇らしげなオハフ61。木造客車を鋼体化改造したオハ60やオハ61は、座席間隔がスハ32以降の鋼製客車に比べて狭く、蒸気機関車が姿を消す頃には地味な存在でしたから、臨時快速に使われるのは最後の晴れ姿でした。

日本海を車窓の右に見て、南へと走る8620。列車の中央にオハユニを挟んで、乗客、小荷物、郵便物も運ぶ充実した編成です。    

西津軽の穏やかな夏の海は、鉄道輸送が始まる明治中期まで、北前船が航行する日本の大動脈でした。北前船の寄港で賑わった五能線沿線の港町も、東北本線奥羽本線羽越線北陸本線と日本列島を縦走する鉄道輸送の充実によって北前船が消滅したあとは、単なる漁村になってしまいました。太平洋戦争前の大陸との交易で栄えた港は、秋田港、酒田港などの大きな港に限られていたのです。

能代へ向い南下する混合列島。 機関車の後に貨車をつなぎ、貨物扱いのある駅で解結を繰り返しながら進みます。乗客は貨車の入換が終るまで動かない客車の中で読書をしたり、うたた寝をしたり、フラットホーム周辺を散歩したり、その時間の流れには、単に時代遅れと片付けられない生活感の中の余裕があったように思えます。 

この編成にもオハユニが組み込まれ、西津軽の物流に対して五能線は、多くの役割を担っていた事が伝わります。 道路はキレイに整備されていますが、まだ交通量はありません。

弘前へ向う混合列島。しんがりに貨車が1両。 途中駅の貨物側線の配置によって、客車の前後に貨車が連結されるのも混合列車の楽しさのひとつです。

弘前へ向うかっぱ号。 リゾートしらかみ等の観光列車が通る五能線も、温暖化による豪雨災害の頻発によって存続が危ぶまれています。 

かっぱ号が走った夏。

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市