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吉松機関区と肥薩線

鉄道の歴史に翻弄された吉松。蒸気機関車時代の光景です。

入換作業中、ホームに停車したC55。吉都線は長くC55が活躍した路線でした。

C55に引かれる無火回送のD51。メインロッドが外されています。大型の敦賀式の集煙装置、砂撒管元栓を守るように取り付けられたサンドボックスの庇、汽笛の後ろに重油タンクが乗せられ、更にランボード上の補助重油タンクが取付けられ、矢岳越えの重装備D51と呼ばれていました。

ループ線で高度を稼ぐD51。肥薩線は海沿いを走る現在の鹿児島本線が昭和2年に開通する前は、熊本と鹿児島を結ぶ唯一の路線でした。重要路線であったので、スイッチバックや、日本初のループ線など、峠越えの鉄道建設技術の総てを注いで敷設されたのです。

吉松駅に到着した肥薩線の混合列車。客車はスハフ1両だけです。

 鹿児島本線が海側の路線に切替えられ、肥薩線の輸送の使命は、鹿児島↔熊本方面(北九州、中国地方、関西、中部、関東つまりは全国連絡)との輸送が無くなり、吉松↔隼人間のローカル輸送だけになりました。短い編成に重装備をした最強のD51を使用していたのには、日本の鉄道史上最悪のトンネル事故を発生させた過去からの教訓だったのかもしれません。

重連で坂を下るD51。

しんがりには後部補機。

 

山神第2トンネル事故は、終戦直後の8月22日におきました。吉松から復員する兵士を満載した列車がトンネル内で立ち往生し、勾配を下って列車を再度引き出そうとしたところ、トンネル内で列車から降りた復員兵が、線路内をトンネル入口に向かっていたために後部補機に轢かれてしまった、死者は50数名と言われる悲惨な事故でした。列車は客車5両に客車代用の貨車8両。客車代用の貨車には、列車内の放送設備はありませんから、車掌が貨車に乗った復員兵に情報を伝える方法すら無かったのです。

のどかな山間の風景。

 

 事故の原因については色々な説がありますが、そもそも貨車を客車に代用するのは無理ですし、更に定員を大幅に超える人数を乗せた列車を積車何両と換算したのか? D51の整備状況や乗務員の健康状態、更には石炭の品質まで、原因になりそうな問題は多々あります。このように原因すら特定されていない事故は、無理に無理を重ねた戦時輸送体制から発生したと言えます。先にトンネルを出ていた本務機の機関士が、いったんバックして引出しをしようと考えたのは、トンネル内で列車を後部補機とともに放置すれば、乗客と乗務員に窒息の危険がある為、当然の判断でした。また、何も知らされずに貨車に詰め込まれ、煙にむせた復員兵が、徒歩でトンネル出口に命からがら向かったのも当たり前なことでした。

重油を噴霧し、モウモウと黒煙を吐いて勾配に挑むD51。噴煙を列車後方へ吹き流す集煙装置の操作も、重油の噴出のコントロールも加わって、峠を安全に越えるためのD51の運転には熟練が必要でした。肥薩線のD51は、圧縮空気を使用した開閉装置を装備した集煙装置を取付け乗務員の作業を軽減していました。トンネル事故当時のD51は、重油併燃や排煙の装備は無く、低質な石炭や整備不良、施工不良も重なって、D51本来のパワーを発揮出来なかったと思われます。

混合列車に使用されていたダブルルーフのスハフ32。

 せめて復員兵が全て客車の車内に居れば、少なくとも轢死者は無かったのでは無いかなどと悔やまれます。そんな過去を背負いながら、D51は峠を越えていたのでした。

 

 撮影・写真提供  加藤 潤 横浜市