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被爆の鉄路 呉線

広島へと海岸線を走る呉線では、太平洋戦争後の復興に鉄道輸送で貢献したC59、C62が最後の活躍をしていました。

瀬戸内沿いにひた走るC62牽引の急行安芸

 

 戦艦大和を建造した呉海軍工廠を持ち、沖合の江田島海軍兵学校があった呉市を通る呉線は、単線ながら軸重16トンを超えるC59、C62が使用できる線区で、山陽本線が電化され転属先の線区の無くなった特甲線用大型蒸気機関車の最後の活躍の場になったのでした。

汽笛からスチームを吹き上げ、隧道に進入するC62。

 

 急行安芸は、東海道新幹線開業後、本数を減らした東京と関西、中国地方を結ぶ夜行急行の中でも生き残り、長距離急行として寝台車を中心に編成された名列車でした。 ヘッドマークを付け、長編成を軽々と牽引して疾走する姿は、C59、C62にとって最後を飾るにふさわしいものでした。

疾走するC62。信号柱の通信線の数が単線とは言え、重要路線であることを偲ばせます。

 名作アニメ、この世界の片隅にの舞台として注目されることになった呉市は、太平洋戦争終了までは大日本帝国海軍の呉鎮守府が置かれ、戦艦以下多数の戦闘艦が出入りする重要な拠点でした。 そして広島原爆投下時には、広島駅周辺だけでも100名以上の鉄道員が瞬時に亡くなられ、呉線も多大な破壊を被ったのです。

夕闇が迫る中、普通列車を牽引して快走するC59。

 原爆投下後、鉄道は昼夜を問わない復旧工事を続け、3日後の9日には救難列車を走らせました。水と石炭と人材さえ揃えば列車は走らせられるという、蒸気鉄道の強靭さが発揮されましたが、救難そのものは困難の連続だったと記録されています。

C62の引く上り普通列車、 呉線は電化まで長編成の客車列車が残った路線でした。

 

 呉線蒸気機関車最後の活躍をしたC59戦後型とC62は、共に戦後の旅客増への対策として新製された蒸気機関車でした。 終戦直後の機関区の写真を見ると、中学生のような少年が整備の手伝いをしていたりして、戦争による鉄道の疲弊の凄まじさが分かります。 その混乱期に旅客輸送の切札として投入されたC59戦後型とC62は、戦後復興が進むにつれ、幹線電化により東海道本線を東から追われる宿命を背負って生まれた機関車でもありました。

架線柱が立ち並ぶ中、最後の活躍をするC62。

 呉線電化による無煙化でC59と特甲線用C62は火を落とし、戦後を走り抜いた名列車 急行安芸もダイヤから姿を消してしまったのです。

 

    撮影・写真提供 加藤 潤