広い大地は超大型蒸気機関車にピッタリの活躍場所でした。
蝦夷駒ケ岳をバックに快走するC62。複線の線路はレールは太く、道床は厚く、曲線も緩やかで、超大型蒸気機関車がのびのびと活躍出来るステージでした。
1000トン以上の貨物列車を牽引してシッカリと進むD52。道床の厚さがよく分かる写真です。 その巨体ゆえに東海道、山陽本線の電化以降、転属先に苦しんだD52にとって北海道は最後の活躍の場となりました。
列車を引き出し、シリンダー内の凝結水をドレイン排出するD52。燃焼が良好で白煙だけを吐く余裕の発進です。
太平洋戦争突入に向けて、日本近海の貨物船の航路途絶に対する切札として誕生したD52。資材と工員不足から計画数の半数程度しか生産されず、しかも機関車としての耐用年数も3年から5年もてば良いといった悲惨な計画をもとに製造されましたが、北海道で最後の活躍をしたグループは、全てボイラーを新缶に積替え、自動給炭機まで装備した、完璧な超大型貨物用機関車でした。ただし、函館本線は、石炭の海上輸送を鉄路に変える軍部の方針があったにも関わらず、駅の有効長の制限により、長大な列車は運転不能であったため、折角のD52も、D51でも牽引可能な列車を引いていたのでした。
給水するC62。C62とD52に与えられたテンダーは、石炭12トン、水15トンを積む長大なテンダーで、機関車と合わせた全長が20メートルを超えたために、使用できるターンテーブルの設備が少なく、その面でも使用線区が限られました、鉄道を理解せず、精神論だけが先行した軍部主導の輸送計画で、太平洋戦争時の鉄道輸送はズタズタになっていたのです。
D52と全く同じ重量の貨物列車を牽引していた蒲鉾型ドームの戦時型D51。 D51の戦時型も終戦後、新ボイラーに積替えられ、長く活躍を続けました。 新ボイラーへの積替えは、D52とD51戦時型が何回もボイラーの破裂事故を起こし、多数の乗務員が亡くなった為、戦後、乗務員の乗務拒否が起きた為でもありました。ことにD52の破裂事故では、ボイラーそのものが百メートル以上を飛んだ重大事故もありました。
単機で客車列車を牽引するC62。
機関車は機関車としてあるべき形で、乗務員は安全を優先に機関車を操る、そんな事すら出来なかった太平洋戦争。D52はその証人として走り続けていたのです。
撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市