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石炭の道・室蘭本線

岩見沢から沼ノ端を経て室蘭港までは、北海道産の石炭の大動脈で、室蘭港は道内産石炭の6割を積み出す重要港でした。

疾走するD51。平坦な線路が続く区間では長大な貨物列車をD51が単機で牽引していました。 明治維新以降、開発された石狩炭田から産出される石炭は、函館本線で小樽へ、室蘭本線で室蘭へと運ばれました。 製鉄用に使用するコークスの原料として適していたので、室蘭製鉄所でも昭和30年代までは使用されていました。

車掌車の後ろに木材チップ積みのトラがつながれています。室蘭は製鉄所と共に製紙工場の街でもありました。室蘭本線蒸気機関車が最後の活躍をしていた頃は、道内の炭鉱は多くが閉山し、エネルギーは石油へ、石炭は安価な輸入石炭へと転換されていたのです。

高温高圧ボイラーの出力に物を言わせ疾走するC57。給水中なのか、給水温め器からスチーム混じりの排水をしています。給水温め器でボイラーに注水する前の水を予熱にする事によって、石炭の使用量は10%削減出来ました。給水温め器にはシリンダーからの排気の一部、給水ポンプとエアーコンプレッサーからの排気が引き込まれ、テンダーからの水と熱交換するので、機関助士はボイラーへの注水を始める時、機器のバルブを操作して給水温め器にスチームを送ります。蒸気機関車の運転とは、常に計器を睨みながらの操作が必要とされる仕事でした。C57ではフロントデッキに置かれた丸い筒が給水温め器です。

石油タンク車を連ねた貨物列車を引くD51。中東の油田の増産で石油の価格が下落し、冬場の暖房も石炭から灯油へと急速に切り替わっていきましたが、冬場に支給される暖房費は、相変わらず石炭手当と呼ばれていました。 広大な石狩炭田の中を貫く室蘭本線の凋落は、蒸気機関車が消える前から始まっていたのです。

室蘭へ向うD51牽引の貨物列車。飼料用のホッパー車や木材チップ貨車、丸太を積んだトラと北海道らしい編成ではありますが、石炭列車の長い車列は、無煙化前に既に消えていたのでした。

草原を疾駆するC57牽引の普通列車

沿線に夕張線、夕張鉄道、三菱大夕張専用線が走る夕張炭鉱を持っていた室蘭本線。炭鉱の閉山から、地域再生に失敗した夕張市財政破綻し、最大11万人居住していた住民は約7000人まで減少し街は廃墟だらけになりました。幾度ものガス突出事故で多数の犠牲者を出した炭鉱は、明治以降は文明開化の動力として、日中戦争から太平洋戦争時は、軍国の炭鉱戦士として、戦後復興には唯一の国産エネルギー源として増産を重ねた末に、露天掘りの海外の石炭との価格競争に負けて閉山したのです。 

太いレールと設置間隔の狭い枕木、厚い道床が列車密度の濃さを物語っています。かつてはセキを連ねた長大な石炭列車が行き来した室蘭本線でした。

 経済成長した日本が、炭鉱と石炭産業を見捨てていく過程を、室蘭本線の鉄路は静かに見守って来たのでした。

 

   撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市