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奥羽山脈を越えるC58・陸羽東線

冬には季節風が吹き荒れる山形県側と、分水嶺堺田駅から中山平、温泉地鳴子まではスキー場が点在する豪雪地帯でした。C58型は、8620の後継機で万能型でしたが、勾配区間向きではありません。100キロ近い陸羽東線の長さと、勾配が20‰以下だという線区の特性から、陸羽東線はC58型だけで蒸気機関車時代の最後まで運用されたのでしょう。

本務機と前補機が力を合わせ、互いをいたわり合いながら峠を登ります。墨絵の風景となった山々が、C58の力闘を見守った陸羽東線

 昭和初期、亜幹線の主力は8620型でしたが、戦争へと急速に向かって行った大日本帝国の戦時輸送には非力と考えられ、8620の強化型として計画されたのがC58型でした。 その為、C58は新製当初は亜幹線にも投入されましたが、同時期に生産されたC57やD51型が増えるにつれ、活躍の場は、輸送単位の少ない支線へとシフトしていったのでした。 C58の登場の頃、明治から大正初期に輸入された古典機と呼ばれる蒸気機関車群で鉄道省に残っていた最後のグループが、大量の8620の都落ちによって鉄道省の鉄路から淘汰されいったのでした。

前補機仕業を終え、踏みしめて登った坂を、逆向き運転で駆け下るC58。 長いトンネルがあり、牽引する列車長も長い陸羽東線では補機の運用は基本的に重連で、後部補機が付くことはありませんでした。重連で走行する場合、列車の通しブレーキ扱いと、走行区間の安全確認は前補機が担いましたから、前補機を操る機関士と機関助士のコンビは責任重大でした。また、写真のような逆向きの単機回送も、運転区間上では、れっきとした列車であり、逆向きで視界が悪く、機器を操作する体をひねって、振り向いての安全確認を続けるのは、厳しい作業でした。機関車は軽々と坂を下りますが、密閉キャブとはいえ、側面の窓や、後面の石炭の取出し口からは容赦なく寒気と雪が吹き込んで、乗務員を苦しめたのでした。

密閉キャブとは名ばかりで、風が容赦なく吹き抜けるC58型のキャブ。もっとも、C57やD51型ではキャブとテンダーの間の渡り板が、石炭を焚べる際の足場でしたから、機関助士の投炭作業の安全面からは画期的なキャブでした。夏は暑く、冬は酷寒の作業環境の中で、乗務員は定時運行への努力を続けました。

C58が活躍していた時代から、陸羽東線は電気式信号に更新されていました。福島↔山形間の奥羽本線が不通になった際の迂回路としても、奥羽山脈を横断する陸羽東線は、たいへん重要だったからです。

雪晴れの中山平を行くC58の重連牽引の貨物列車。タンク車の前に木材チップ積みのトラが見えます。蒸気機関車の全廃が進んだ頃、沿線の山々には、太平洋戦争後の復興に向けて伐採された部分に杉が植林され、既に若木に成長していました。無煙化で清潔で便利なディーゼル機関車が投入され、乗務員の労苦は軽減されましたが、安い輸入材に押されて沿線の林業は衰退し、美しかった杉山も、今は見る影もないほど荒れ果てています。

仙台平野を快走し、駅に侵入するC58。 中型テンダーとはいえ、C57、C59で実現したボイラー圧力16気圧を踏襲した、高性能の高温高圧ボイラーを搭載したC58型は、平坦線では牽引力と速度のバランスが取れた優れた機関車でした。C57に比べれば遅く、D51よりも非力でしたが、支線での8620型の、長期間の活躍で解る通り、C58型の性能に合った輸送量の線区も、全国に多々あり、四国も含めた全国で親しまれた機関車でした。

重連の前補機仕業を終え、静かに雪の峠を下るC58。

 杉林の下草刈り作業の折、刈り取った草の堆積の下から、立派な栗の実を見つけました。杉林の上側に栗の木は無く、リスが、運んで隠した栗の実です。 栗の木から遠く離れた場所に、突然、栗の木が生える理由が分かりました。 安いからと海外から木材や商業作物を買い漁り、乱伐やプランテーションでの商業作物生産で、輸出国の民衆を飢餓に陥れ、自国の山は荒れ放題、後継者のいない田んぼは耕作放棄で藪になっている現実を目にすると、リスのクリ運びにも劣る我々の経済効率一辺倒の発想の貧しさを痛感せざるを得ません。

 

 撮影・写真提供  加藤 潤 横浜市