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美祢線と歴青炭の炭鉱、大嶺支線

昭和46年、全国一の良質炭を掘り続けた大嶺炭鉱が閉山して、輸送量が無くなっても、C58は南大嶺と大嶺の間の大嶺支線を往復していました。

 

C58が大嶺支線のたった1両の客車を引いて走ります。 大嶺支線は開通当初は厚狭駅から大嶺駅までの大嶺線という線区で、大嶺炭鉱で産出される良質の石炭を日露戦争で軍艦に使用するために、大日本帝国海軍が肝入で開通させた炭鉱鉄道でした。やがて長門市駅から厚狭駅までの南大嶺を通る路線が全通して後は、南大嶺から大嶺までが大嶺支線となったものです。日露戦争日本海海戦では、黒煙が少ない大嶺炭鉱の石炭を焚いた日本の艦艇は、ロシア艦隊から見つかり難く、更に砲戦ともなれば、煙に邪魔される事無く、光学測距儀でロシア艦を捕捉出来た為、艦砲の命中精度は、日本艦がロシア艦を数倍上回り、日本海海戦の勝利に大きく貢献したと言われています。

大嶺駅発の貨物列車はトラ2両だけ、炭鉱の閉山は大嶺支線の存在意義に決定的な影響を及ぼしました。 蒸気機関車の全廃前に、海外からの輸入炭に押され、大嶺炭鉱は閉山したのでした。

 美祢線は何故かターンテーブルが無い駅止まりの列車が多く、大嶺、美祢、重安駅とも大規模な鉱石ホッパーを有する構内があったに関わらず、ターンテーブルが無い為に、ダイヤの上での下り列車は、全て機関車逆向きで駅に向い、鉱石を満載した列車を引いて、正位で厚狭駅に向かうのでした。

 

 

長大な石灰石専用列車を引いて、厚狭川沿いに坂を下るD51。大嶺炭鉱の石炭が無くなっても、依然として美祢線自体は、輸送量が多い幹線扱いの路線として活用され続けたのでした。 美祢線のように蒸気機関車が専用貨車を長く連ねて走るのは、国鉄の路線の中でも珍しい存在でした。

厚狭川の支流、麦川川を橋梁で渡る大嶺駅行のC58。炭鉱の閉山以降の輸送量ならC11でも足りる路線でしたが、厚狭駅から長門市駅までの通しの普通貨物列車と旅客列車を受け持つC58が、そのまま大嶺支線のラストランナーになったのでした。 大嶺支線の一区間だけを1両の客車が往復していたのは、専用線の列車運用そのもので、希少でした。

 

景観が良くても力行しても逆向き牽引は絵になりづらいですが、こうして振り返ると、逆向き牽引の専用列車が頻繁に登坂した美祢線は、この点でも珍しい路線だったと感じます。

厚狭駅から逆向き運転で重安駅まで40数キロ。首をひねっての運転操作をこなした機関士さんには頭が下がります。

美祢線でD51が正面を向いて煙を吐くのは、発車とその後の加速する間だけです。今、汽笛が鼓吹されました。

汽笛が鳴り終わると、猛然と噴煙が吹き上がり、ブラスト音が響き渡ります。

加速を続けながら、シリンダーの凝結水をスチームと共にシリンダーのドレンから線路に向けて吐き出します。

冬場の長時間の停車でシリンダーが冷えているのか?猛烈なスチームの排出です。機関士の前方視界も遮られていますが、D51は加速を続けます。

夜の帳に包まれても、煙とスチームを上げ続けるD51。単線で1日に10往復以上の貨物列車を走らせた美祢線。逆向き運転の機関士の苦労も、大嶺炭鉱の日本一の良質炭の記憶も、遠い歴史の1ページになってしまうのでしょうか?

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市