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北前船の海、山陰本線

日本海に沿って走る山陰本線日本海と鉄道は地域の時代毎の変化に大きく関わっていたのでした。

山陰本線では朝、太陽が山から上り海から明るくなります。朝の列車は明るい海を背景にシルエットとなって進むのでした。

 かつては北前船が行き来した日本海を左に見て、京都方面行の貨物列車を引くD51。山陰本線の京都↔下関間の距離は、東北本線の上野↔青森に次ぐ長さで、700キロ近い長距離路線でした。

 明治中期以降に日本全国の鉄道網が整備されるまで、日本海を使い、大阪から北海道を結んだ北前船は、日本最大の国内輸送ルートでした。北前船は、単に北海道の産物を関西にもたらしただけではなく、瀬戸内海から、山陰、北陸、東北の西海岸、北海道を航海する津津浦浦で地域の産物を交易する、日本海沿いの長距離商いの仕組みでした。もちろん瀬戸内の塩を北海道へ運び、北海道の昆布や塩干物を関西に運びましたが、境港をはじめとした山陰の数々の港町は、北前船によって全国に結ばれ、栄えたのでした。

入り組んだ岬をかわし、下関方面に急ぐD51牽引の貨物列車。 距離の長い山陰本線では機関区毎に装備に特色があり、集煙装置の有無や重油タンクなど、様々なバリエーションがありました。

 山陰地域にも鉄道網が具体化する明治後期には、日本の大陸進出の軍事面への輸送が考慮され、すでに軍港として活用されていた舞鶴港への、鳥取島根県からの兵員の輸送や、日本海沿いの港への海軍の配置も勘案して、現在の山陰本線の路線敷設が決定したのでした。

山陰本線西部の要衝、浜田機関区で休むC57。長編成を従えてのトンネル通過対策として、集煙装置と重油タンクが装備されていました。重油併燃はトンネル対策として、パワーアップと黒煙の減少から特に効果的な装備でした。 浜田機関区は大正時代の傑作蒸気機関車C51が長く活躍し、さらには稀少なC54も最後の活躍をした、蒸気機関車時代の名門機関区でした。

 

浜田駅構内で猛然とダッシュするD51。集煙装置と重油タンクで勇ましい出で立ちです。このD51は先台車のバネカバー上に箱状の装備があり、ドームは戦時設計の蒲鉾型ですが、テンダーは平底の標準タイプと特徴があります。ひとくちにデゴイチと言っても、個体別に相違があり、線区に合わせた改造もされて形態は変化に富んでいました。

 昭和に入り、山陰本線が全線で開通すると、北前船などの港港を結ぶ地域の海運は消滅し、物産の取引での港の繁栄は急速に衰退し、山陰地区は、農産海産林業や鉱業といった原料の供給地になり、更には、関西地区の都市に労働力を送る地域になっていきました。   そして、太平洋戦争が終わり、日本が大陸から撤退し、アメリカ重視の政策を取り続け、港の機能が太平洋岸にばかり集中したことで、山陰地方は過疎に悩む土地柄になっていったのです。

風光明媚な海岸線の鉄路のイメージが強い山陰本線ですが、トンネルの数は180と、山また山の鉄路でもあります。 豊かな自然に恵まれた沿線が、東海道山陽本線沿線の発展に比べ立遅れ、衰退していく時の流れの中を、蒸気機関車は走っていたのでした。

 撮影・写真提供   加藤 潤 横浜市