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石炭の道・室蘭本線、その2

北海道開拓使に始まる北海道の開発は苦難の連続でしたが、そんな時代を蒸気機関車は走り抜き、消えて行ったのでした。

疾駆するC57。C51の改良型として決定版となったC57型は、太平洋戦争後にも新製された程の旅客用の傑作機関車でした。写真のC57はドーム後に重油タンクを装備して、更にパワーアップされています。キャブはドアが追加された寒冷地仕様改造で、北海道型と呼ばれていました。戦後政府の財政難から、C57の戦後型、4次型は20両で生産中止され、C57型4次型の仕掛り部品を活用して生産されたのがC61型でした。C61型の33両という中途半端な製造数は、C57の仕掛り部品の在庫量から来ています。

突き進むC57型。回復運転時などでは、ゆうに時速100キロを超える速度で疾走した高速機関車で、線路際で撮影すると怖い程の迫力でした。優雅な大正型のC51の改良型は、最終的にジャジャ馬C57に結実したのです。特に高圧ボイラーの生み出すトルクは凄まじく、C51に慣れた機関士からは、空転が激しくて乗り辛いとの酷評すら受けました。C51よりも牽引定数が多く、重い列車を引かされたのですから、C51と同様に加減弁を操作すれば、空転は当然の事で、C57での列車の引き出しには、加減弁の繊細な操作が必要とされたのです。

室蘭へ向け疾駆するC57。曽根富美子さんの名作、親なるもの断崖の舞台となった室蘭。石炭の積出港、また鉄の街として栄えた影で、青森から売られた女性が、売春宿で苦労を重ねる物語ですが、日本の公娼制度の廃止は昭和30年代であり、大日本帝国とは遊郭から税金を取り、女性の人身売買を黙認していた政府だったのです。貧しき者を虐げつつ、大東亜共栄圏に浮かれていた日本人を乗せて、敗戦へと蒸気機関車も突き進みました。

D51の中でも、特に空転が激しいと言われた1次型も活躍しています。室蘭本線では1200トンの重い石炭列車を牽引しましたから、D51もC57と同様に、D51に合わせた運転技術の習得が必要だったのです。

 太平洋戦争中の炭鉱では、日本人の鉱夫が出征により減少し、朝鮮人が半ば強制労働をさせられて、その就労比率は50%近かかったと言われます。手配師によって炭鉱行きが決まると、朝鮮人労働者は死を覚悟したと言われていますから、いまだに半日感情が残るのも当然です。戦争へと向かった時代にも、蒸気機関車は黙々と走り抜けたのでした。

ギースル・エジェクタから噴煙を上げ、疾走するD51。ギースル・エジェクタとは、写真にある長円形断面の煙突に、煙室内の3連のブラストノズルを組合せた燃焼改善システムです。 通常の煙突は、1本のノズルからシリンダーの排気を吹き上げ、ボイラーの煙管から煙を吸い出すので、特に加減弁を絞った時は煙の吸引が弱くになりますが、ギースル・エジェクタでは、そういう場合には、吐き出すノズルを制限して、高速の排気を吹き上げて煙の吸引をすることで、ボイラーの燃焼を改善し、ボイラーの出力を10%以上パワーアップしました。開発されたオーストリアでは普及したシステムですが、日本では採用されたのが昭和40年代でしたから、改造取付でもあり、D51の36両が装備しただけでした。

無煙化を間近に控えていても、全力で走るD51。その奮闘は最後の日まで続きました。

 蒸気機関車が全廃され、汽車の煙は消え去っても、蒸気鉄道時代の暗い社会の記憶は、歴史に残り続けます。

 

 撮影・写真提供 加藤 潤  横浜市