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奥羽本線米沢駅から羽越本線坂町駅へ・米坂線の9600

奥羽本線米沢駅から、羽越本線坂町駅まで、100キロ弱の距離に25‰の勾配を持つ米坂線には、大正時代に8620型と共に量産された貨物用機関車、9600型が活躍していました。東北本線と共に東北地方を縦貫していた奥羽本線と、日本海沿いに北陸本線と連絡して、関西と山形県、秋田を結んでいた羽越本線は、東北地方の大動脈でしたから、米沢駅から坂町駅を結び、奥羽本線羽越本線をショートカットする米坂線は、たいへん重要な路線だったのです。

積雪日本一という、鉄道運営上はあまりありがたくない看板が、この路線の厳しさを端的に表しています。事実、大雪による運休はもとより、雪崩被害による列車の転落事故など、鉄道にとっては不名誉な事故が多発する路線でもありました。そんな過酷な路線であっても、ショートカットの輸送は客貨とも多く、9600は太いボイラーを揺すりながら坂に挑み、トンネルを抜けて、幾度も鉄橋で谷を越え、走り続けていたのでした。

 

キャブの屋根近くまである太いボイラーが、9600の力強さの象徴です。この機関車では、短い煙突に集煙装置が取り付けられ、米坂線の急勾配とトンネルという悪条件を伝えています。米坂線には米沢と坂町に機関区があり、この郡山式の集煙装置を付けた機関車は米沢機関区に所属していました。鈍足と言われた9600ですが、動輪のサイズは、明治に大量に投入され、勾配線では客車も引いたB6と同寸であり、坂と雪に行手を阻まれる米坂線では、客車も牽引する頼もしい存在でした。

トランス点検用の足場がものものしい、電柱の脇に駐機する9600。9600型の開発に当たって、最大のネックとなったのは、棒台枠が採用出来なかった事でした。当時の輸入機関車では、アメリカ製は鍛造鋼で、ドイツ製は圧延鋼板の切抜きで棒台枠を使用していましたが、大正初期の日本では、厚い鋼材を使っての棒台枠の製造技術が無かった為に、8620型と同様に板台枠を使わざるを得ませんでした。大型のボイラーと広い火室をフレームの上に乗せる構造の9600型では、板台枠を採用した為に、ボイラー中心が高くなってしまい、運転の安全性を確保するために、運用速度を最高64キロに抑えることになりました。 9600型が、優れた牽引力にも関わらず、後発の機関車の投入に連れて勾配線区での運用に活躍が狭められた原因は、この速度制限にあったのです。

客車列車を引いて坂を下る9600。米坂線は9600型が客車を牽引する数少ない路線のひとつでした。 9600型の速度制限の原因のもうひとつは、直径1250というB6と同寸の小径の動輪にありました。9600ではシリンダからの動力を動輪に伝えるメインロッドは第3動輪に結ばれる、長く重たいロッドでした。第3動輪にはこのロッドのカウンターウエイトが取り付けられていましたが、小径の動輪のため、ロッドの重さとカウンターウエイトの重さのバランスが取れず、高速回転をさせると激しい動揺を生じたのです。大正時代中期に登場した、画期的な強力機であった9600は、その後にD50型が登場するまで、全国の主要幹線で活躍しましたが、D50に続いてD51型が大量に投入されると、鉄道のスピードアップの要求に応えられず、山岳地帯の線区に運用が限定されるようになリました。B6をはじめとした1250直径の9600型と同寸の動輪を持つ明治の客貨両用の機関車は、動輪3対のうち、第2動輪にメインロッドを取付ていたので、9600のようなカウンターウエイト不足は無く、営業線区でのトップスピードは9600よりも早かったのです。

雪深い山中を行く9600。勾配と豪雪という鉄道にとって非常に厳しい条件の中で、黙々と列車を引き続けた9600型は、晩年に活躍の範囲が狭められたとは言え、日本の蒸気機関車史上、忘れ得ぬ名機のひとつです。 9600の特徴的な短い煙突と平べったいドームが良く分るショットです。

 9600の先輪に動輪4対というコンソリデーション型の軸配置は、明治の輸入機関車にあっても、強力な貨物用機関車として多く採用されていました。 9600型と同様に、動輪の上に火室を置いた9300型と9400型は、共に常磐炭鉱の低質炭を活用する目的で、当時、常磐線東北本線を走らせていた日本鉄道から、アメリカに発注された機関車でした。 逆に台枠の間に火室を落とし込んで、低重心化を図ったのが、官設鉄道神戸工場のF1・9150とアメリカ製のF2・9200、そして九州鉄道の9500型でした。中でも9200型は、北海道の炭鉱専用線に払い下げられた後、炭鉱の閉山まで長く活躍しました。炭鉱専用線という速度が要求されない、且つ、良質な石炭が使用できる環境であれば、狭火室のコンソリデーションも能力を発揮出来た実例です。

貨物列車に奮戦する9600。25‰勾配で約240トンという牽引力は、8620とC56の重連に等しい数値で、9600型の勾配線での強力振りが伺えます。確かに動輪4対に先輪のみという軸配置は、機関車本体の重量のほとんどを動輪の粘着重量に使える、中型の貨物用機関車としては理想的な軸配置でした。9600の設計当初は、機関車は客貨分離で、速度が必要な列車には俊足の8620と言う構想が、太平洋戦争後には、支線は管理が楽な客貨両用でと、真逆に変化したことが、9600が営業線区を限られた要因のひとつです。

9600型牽引の列車を乗客と駅長がプラットフォームで待っています。奥羽本線羽越本線のショートカット路線ですから輸送量は多く、雪に覆われた山の小駅でも、待避線の長さは長大でした。 奥羽本線が新幹線を通す為に標準軌間となってからは、米沢線本来の奥羽本線羽越本線連絡の貨物輸送の機能は失われ、豪雨被害で鉄橋流失の被害にあい不通となってからは、路線そのものの存続の危機にさらされています。



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新製当時、函館本線倶知安小樽間で急行列車を引いた記憶も忘れ、黙々と貨物列車を引いてアーチ橋を渡る坂町機関区所属の9600型。坂町機関区の9600は、汽笛が太い音の5音汽笛で、甲高い音色の3音汽笛を装備していた米沢機関区の所属機と、汽笛だけで判別出来ました。米坂線の25‰勾配に積雪ともなれば、エンジン1基のキハでは非力だった事が、9600牽引の旅客列車が残った理由です。乗客にも貨物輸送にも重要路線であった事がうかがえる米坂線です。

 山形新幹線で東京への時間は短縮されましたが、在来線への新幹線車両の乗り入れによって、米沢駅を通しての奥羽本線から米坂線への直通運転は不可能になり、地域間の貨物輸送を担う鉄道本来の輸送機能は大きく失われたのでした。

 

 撮影・写真提供  加藤 潤 横浜市