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筑豊本線の煙・D50

筑豊本線は北九州の炭鉱地帯を走る大動脈でした。車齢50年近い大型貨物用蒸気機関車D50が活躍していました。

 D50型は大正時代中期に、東海道本線山陽本線や、主要幹線の勾配区間での輸送力向上を目標に計画され製造されました。

 大正時代の大型蒸気機関車といえば、D50とコンビをなす、旅客用のC51型が思い起こされますが、C51型から数年後に生産されたD50は、8620と9600の流れを引き継いだC51に比較すると、構造的には、新世代の機関車でした。

 先ず、後年、C59型のロングボイラーが登場するまでの標準となった大型ボイラーに広火室を採用。空気ブレーキを最初から採用したことで、エアーで開閉する動力焚口扉を導入して、機関助士の投炭作業は両手シャベルになり、石炭を焚くための作業が飛躍的に改善しました。また、ボイラーへの注水もインゼクターのみから、インゼクターと給水ポンプの併用となり、鉄道省標準の給水温め器も最初から装備されています。これらの装備類は、C51型にも後から追加装備されましたから、C51からD50までの間に、日本の鉄道そのものが長足の進歩を遂げた事が伺えます。

 D50が採用した技術的発展のひとつは、圧延鋼板を切り抜いた棒台枠の採用で、C51型までの板台枠に比べ、強度が飛躍的に高まり、棒台枠はその後の蒸気機関車の標準となりました。D50以降の機関車で板台枠を使用したのはC51の構造を踏襲した試作の色合いの濃いC54型のみで、C54型は、やはり台枠の強度不足から、先輩格のC51型と同時期に廃車になっています。

 D50型に棒台枠が採用できたのは、主要国の海軍の艦艇数を規制したワシントン条約により、計画された戦艦の数が減ったことから、高強度の鋼板が余った為で、大正中期においても、軍優先の供給体制であった事が分かります。

 D50型は、太平洋戦争後のD51型の余剰から、2軸従台車に改造され軸重軽減され、軍によって戦場に供出され不足となった9600の代替機として、輸送量の多いローカル線でも活躍しました。車歴の古いD50に改造の白羽の矢が立ったのは、D50そのものが、たいへん優れた品質の機関車であった事を物語ります。コンビを組んだC51型が、優れた性能でありながら、台枠の老朽化で鉄路から消えてからも、D50とD60は、蒸気機関車の末期まで活躍したのでした。

 D50型は、新製すると直ぐに、東海道本線山陽本線はもとより、函館本線室蘭本線信越本線北陸本線など、全国の主要幹線の勾配区間に配置され、それらの線区では、レールの交換や枕木の増設といった軌道強化がなされ、D50の配属に備えました。室蘭本線で実施された試験では単機で2400トンを牽引するなど、貨物用の機関車としての完成度の高さを発揮し、D50の優れた資質は、その後に大増産され蒸気機関車の代名詞となったD51型に引継がれたのでした。

 撮影・写真提供  加藤 潤 横浜市