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南国のパシフィック・日豊本線のC57

日豊本線ではC57が最後の活躍をしていました。九州の蒸気機関車は、良く磨かれていて、美しい機関車が多かったのでした。

乙線と区分された軸重14トン台の線区に向けて、C51型から改良を重ね、決定版として登場したC57型です。D51型のボイラーよりも1気圧昇圧した16気圧の高圧ボイラーを持ち、登場の頃は、高性能機C53の独占状態であった東海道本線山陽本線でも活躍しました。このC57は1次型と呼ばれる初期製造タイプで、日中戦争に始まる日本国内の資材統制の影響を受けずに製造された高品質の機関車でした。 大日本帝国は鉄道は兵器!と勇ましいスローガンで戦時輸送の準備を鼓舞しましたが、高品質の鋼板を機関車の製造に回すことはありませんでした。

隼人駅に停車中の貨物列車。右端から、両開き扉を持つワム、片開き扉のワム、景気後退時に生産された小型のワと、有蓋車のカタログのようです。 有蓋車はワゴンから形式表記はワとなり、積載量でワからワム、ワラ、ワサ、ワキとなり、積載量はそれぞれ14トン以下、16トン以下、19トン以下、24トン以下、25トン以上となっていました。 そして蒸気機関車の牽引力に合わせた積車と空車を重量計算して連結していたのです。 駅名板の後ろにはセラ、つまり18トン積みの石炭車がつながれ、その後ろのトラ、無蓋の18トン積みへと続きます。トラは、石炭専用の積み降ろし施設の無い配送先への石炭輸送にも広く使われました。

発車に向けて、ボイラー圧力を上げるべく、黒煙を吹き上げるC57。 キャブ前面の機関助士側のドアが開放され、キャブ内の暑さ対策をしています。

 停車中には、ボイラー内を横に走る煙管内から燃焼ガスを吸い出す為に、煙突下に設けられたブロワーノズルからスチームを噴射して、排煙を促しました。ブロワーノズルからのスチーム噴出のコントロールはキャブ内のバルブ操作で行いました。火室から煙突までの煙の流れをドラフトと呼び、シリンダーから排出されるスチームで煙突からリズミカルに煙を噴出させる事をブラストと呼びます。この写真はドラフトが効いて、ボイラーが良好な状態となります。

汽笛からスチームを噴出させるC57、汽笛の轟音が轟いていよいよ出発です。 

 汽笛の前には砂撒き装置の元栓が3個並び、煙突側の1番目は第1動輪の前、2番目は第2動輪の前に砂を撒いて、出発時や勾配での動輪の空転に備えました。汽笛側の3番目は第2動輪の後ろに撒く管で、機関車をバックさせる場合に撒きました。砂撒き装置は、撒砂が水分を嫌う為に圧縮空気で噴出させました。撒砂装置の下に見える何度も往復している配管が、圧縮空気の冷却管でランボード下にエアータンクが見えます。エアータンクの後ろの縦長の筒は給水ポンプで、給水ポンプはスチームで駆動しました。蒸気機関車の運転席には、これらの操作バルブが所狭しと並んでいて、機関士と機関助士は、機関車の状態に細心の注意を払い、的確にバルブを操作していたのでした。

隼人駅の駅舎。プラットフォームに小荷物、下屋の下には構内連絡用の自転車が置かれ、幹線の活気ある風情です。駅舎の左側には臨時の改札口があり、繁忙時には多くの乗降客があったのでしょう。 木造ですが、屋根の深い風格のある駅舎です。

ゆっくりと出発していくC57牽引の旅客列車。 引かれるのは大正時代に量産された木造客車を鋼体化したオハ61系と太平洋戦争前に量産されたオハ35系です。オハ61系はボックス席の間隔が明らかに狭く、35系よりも居住性は悪いのですが、仲良く手をつないで走っていました。 そして列車がトンネルに差し掛かれば、乗客は協力して窓を閉め、汽車の煙を防いだのです。

 撮影・写真提供  加藤 潤 横浜市