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雪と蒸気機関車。

クランクからピストンバルブの駆動装置まで、往復運動を回転運動に変換する機構を全て外気に晒している蒸気機関車にとって、冬の雪はたいへん過酷な環境です、そして環境の厳しさは、吹きさらしのキャブで、機関車を操縦する乗務員をも苦しめました。まさに人馬一体の呼吸で、雪山を乗り越え、雪原を疾駆した雪と蒸気機関車の織り成す物語は、汽車の姿が消えても語り継がれています。

白煙をなびかせ、雪原を疾走する根室本線のC58牽引の旅客列車。乗客はスチーム暖房の効いた車内で雪景色を眺めるだけですが、乗務員は機関車の状態を各種の計器と運転音で確認しながら、雪の中に現れる信号を確認し、時計を睨みながら、激しい振動のキャブ内で定時運転を守っていたのです。C58型は、キャブ後面に石炭の取出し口だけを開口させた密閉キャブを装備した、寒冷地には向いた仕様の機関車でしたが、雪は寒風とともに吹き込んで乗務員を苦しめました。機関車と乗務員がともに冬将軍と戦った北海道の鉄路です。

最北端、稚内に向けて力走する宗谷本線のC55。日本海からは利尻島を抜けた西風が吹き、地上の鉄道施設はもとより、機関車の動作部分をも凍結させてしまいます。乗務員は細心の注意を払いながら、機関車を走らせていたのでした。

 蒸気機関車時代は、陸上輸送の殆どを鉄道が担っていました。年末ともなれば、年越し用品から、食材、燃料、そしてお正月を故郷で過ごす帰省客、旅行者まで、全ての貨物と旅客が集中したのです。駅員は地上施設を点検整備し、保線区員は線路状態から雪崩まで気を配り、機関区の整備員は、機関車を最高の状態に整備して送り出しました。そんな中でも寒波は容赦なく鉄道に襲い掛かり、除雪、排雪によって輸送を維持する為、国有鉄道総掛かりの努力が続けられたのでした。

雪の峠を重連で越える、函館本線で急行ニセコを引くC62。山間に排気音がこだまし、噴煙は谷を埋め尽くさんばかりです。

 平坦線では10両以上の客車を引いて、単機で時速100キロ以上の速度で連続走行する能力を持つC62型機関車も、函館本線長万部↔小樽間の勾配区間の連続では、流石に単機とはいかず、重連で峠に挑みました。強力なC62型とは言え、動輪は3対しかなく、動輪上の重量は50トン程度ですから、パワーをレールに伝えようにも、いったん動輪を空転させてしまえば、ありあまる力も虚しく浪費されてしまうのでした。 前補機と、続く本務機の機関士は、自ら操縦する機関車と、僚機の調子を感じ取りながら、動輪がレールを掴みそこねる瞬間を狙って砂を撒き、空転を抑えつつ勾配を登ったのでした。

噴煙をまきあげ、轟音を轟かせて峠を進むC62重連。 山線と呼ばれた函館本線長万部↔小樽間は、大正時代に当時最強の貨物機・D50型が登場すると直ぐに急行旅客列車用として投入された程の難所が連続する区間でした。東海道本線を電化によって追われたC62型が、重連運用を前提に投入されたのは、超大型の急客機の運用として、日本の蒸気機関車史上に残る挑戦でした。

キハと列車交換する米坂線の9600型。キハにも9600にもスノウプラウが取付られ、降雪に備えています。 雪は降り出せば、スノウプラウの前にうず高くまとわりついて走行抵抗となり、機関車と乗務員を苦しめました。9600型機関車のデフレクター取付ステーには山形に成形されたツララ切りも見えます。 豪雪地帯では雪に強い交通手段として、鉄道の必要性がいまだに語られますが、蒸気機関車の現役時代には、汽車に代わる交通手段はありませんから、鉄路を守る鉄道員の責任感と闘志は高く、たいへん誇り高い職場でした。

駅名標も雪に埋もれる米坂線の冬。豪雪地帯を貫いて、奥羽本線米沢と、羽越本線坂町をショートカットする重要な連絡線でした。

雪崩被害も多発した宇津峠を行く9600牽引の貨物列車。米沢からは奥羽本線を経由して東北本線で関東方面へ、坂町からは羽越線日本海沿岸、新潟から北陸本線経由で関西へと、輸送をつなぐ重要な連絡線でしたから、雪の季節にも荷は多く、勾配に強い9600型には、ピッタリの線区でした。

停車時間を利用して、乗務員と駅長が運行情報をやり取りします。降雪により長距離列車に遅れが生じれば、単線区間の列車ダイヤは大幅に乱れました。対抗列車との列車交換駅が変更になったり、除雪にラッセルを通す臨時のダイヤが組まれたり、最新の運行情報は線路に沿って建てられた鉄道信号柱を使用しての鉄道電話が頼りでした。いったん駅を発車すれば機関士は、雪の中に現れる信号を頼りに走り続けたのです。 線路脇には除雪した後に置かれた、列車ごとの停止表示が見えます。

雪原を突き進むC55型、テンダーの背が高い流線型改造機です。C55の流線型改造機は、キャブ側面にドアを持つ密閉キャブ仕様でしたが、北海道に配置された機関車は、C57型やD51型も密閉キャブに改造されたものが多く、北海道型と呼ばれていました。過酷な乗務を少しでも安全にという心配りですが、テンダーと機関車に渡された、渡板を足場に石炭を焚べていた機関助士にとっては、キャブの床板の上でスコップを振るえる密閉キャブは、素晴らしい改造でした。テンダー機関車に新製時から密閉キャブが採用されたのは、C58型からですが、C58の登場後に、あの人命軽視の太平洋戦争へと突入していったのは、残念な事です。

 マニからオハニが続く、釧網本線のC58牽引の普通列車。12月ともなれば、小荷物も満載です。

 

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市