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筑豊本線・徴用工と捕虜の炭鉱

運転列車が往来した筑豊本線の周囲には、筑豊炭鉱にまつわる慟哭の歴史がありました。

冷水峠で奮闘するC55。

 太平洋戦争時に、朝鮮で行き先を偽って招集された朝鮮人労働者と戦争捕虜による強制労働が、全国の鉱山と同じように行われた筑豊炭鉱。筑豊炭鉱の産出する石炭は、大日本帝国の半分程度を占める重要なエネルギー源でした。

飯塚駅に停車中の貨物列車。対向する旅客列車はD60牽引の鈍行。高速を要求されない線区では、各駅停車の普通客車列車には、D50、D51、D60も重宝された機関車です。

 飯塚市には、朝鮮人徴用工への過酷な扱いで今も問題視されている麻生炭鉱があり、近隣の田川市には、これも朝鮮人を酷使したと言われる、麻生鉱業のセメント工場がありました。

飯塚駅に進入するC55。駅員が荷物扱いの為に待機しています。炭鉱があった頃、飯塚駅は、飯塚市の拠点の駅でした。飯塚市には徴用工の無縁仏を弔う飯塚霊園があり、120を越える朝鮮の方々の遺骨が収容されています。

 

 太平洋戦争当時、朝鮮人徴用工は筑豊地域だけで15万人を数えました。三菱系列の炭鉱を中心に、セメントの麻生鉱業、また麻生炭鉱にも、それぞれの事業所でのべ1万人近くが働いていたと言われます。休みはなく、給与も一部しか支給されず、暴力で支配された強制労働が行われたと言われており、当時の給与不払い問題が、徴用工問題として再燃しました。

冷水峠越えの後部補機、D60。京都発熊本行の夜行急行天草は、九州で朝を迎え、筑豊本線では昼間急行として走りました。プラットフォームの植木は、長旅の乗客の目を癒やした事でしょう。

 

 慰安婦問題や徴用工問題が再燃するのは、日本が日中戦争や太平洋戦争中に侵略して犠牲を強いた歴史を、日本国民の総意として反省しておらず、当時の正しい歴史資料を情報として共有していないからでもあります。国際化社会と言われる今日、日本の歴史教育大日本帝国の犯罪的な所業を正しく伝える事は、日本人としての最低限の歴史認識を身につける事であり、国際人のマナーとしても必要です。

 

 C55第3次型のテンダー。太平洋戦争中には真鍮製のナンバープレートは、軍用資材として供出され、ナンバーは車体に直接ペンキで書かれていました。日本は、鍋釜から、ペットの犬までを軍に資材として集めて戦争を遂行し、国民は1億玉砕を覚悟していたのでした。

 

 日韓請求権協定が国際法上で認められているにせよ、隣の国の国民にまで強いた犠牲は、歴史に残り続けます。太平洋戦争中の日本の産業で労働に従事した徴用工と捕虜は合わせて約60万人に及びました。亡くなった方、怪我をされた方はもちろん、無事に帰られた方にとっても、日本で受けた虐待の無念は消えること無く、今も語り継がれているのです。

飯塚駅を発車する上山田線のC11牽引の普通客車列車。 筑豊炭田には多くの支線があり、炭鉱専用線も加わって石炭輸送の鉄道網が広がっていました。 

 

 汽車の煙は消え、鉄路が無くなっても、歴史が消えることはありませんから、かつての国家と国民一丸の暴挙を知る事が必要です。そして、そうした正しい歴史認識を国民が持たない限り、国民の痛みが伝わる政府を日本の国民が持つ事も出来ませんし、日本の国が経済以外の分野で認められる事も無いのです。

 

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市