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9600という機関車

大正の名機、9600型は明治の末期、日本全国の幹線を国有化し、機関車の規格も統一するという遠大な計画の下で、本格的な貨物用機関車を国内で生産する意欲的な発想で設計、生産がなされた、日本初の量産蒸気機関車のひとつでした。

米沢駅に到着した米坂線の9600。背後には長井線のC11も見えます。煙突には郡山工場式の集煙装置が取付けられ、いかめしい出で立ちです。

 蒸気機関車無煙化によって次々に廃止されていた頃、9600はもっぱら入換用や勾配のきつい支線などで使用されていましたが、4軸の動輪1軸の先輪のみという効率的な軸配置の9600型には、この機関車ならではの誕生物語がありました。

 大正初期に9600型が生産され投入され始めた頃は、日本最強の貨物用機関車で、9600を牽引力で凌ぐ機関車は、丹那トンネル開通前の東海道線箱根越えに使われた、9750、9800、9850の3形式、CCマレー機関車だけでした。9600型の牽引力は、明治に大量に輸入された2120型、通称B6型の2倍に相当し、9600型は量産されると、全国の幹線筋から、明治に輸入された数多くの貨物用機関車を淘汰していったのでした。

寒風に噴煙をなびかせる、宗谷本線の9600。太いボイラーを持ちながら軸重は14トン以下に抑えられ丙線でも活躍できました。宗谷本線はC55型と9600型を客車列車と貨物列車で分けて使用していました。9600型の登場当時は、客車は8620型、短編成には6700型と6760型、貨物列車と勾配線区専用として9600型と用途別に設計されましたから、宗谷本線は8620型がC55型に更新されてはいましたが、9600型本来の運用でした。

 

 9600型の生産数は、それまで量産された国産機関車はもちろん、B6型を大きく超える770両に及び、全国の幹線の貨物輸送や幹線の勾配区間での輸送は、大きく改善されたのでした。

トンネルから顔を出した米坂線の9600、下り勾配にかかって機関車は絶気して、煙突後からエアブレーキのコンプレッサーからの排気が見えています。 米坂線の勾配区間、宇津峠は25‰の急勾配が続き、9600型に牽引される客車の車内にまで煙と煤が舞い込む程でした。 米坂線もまた、勾配線区には9600型という、9600型本来の運用と言えます。奥羽本線羽越本線を結んだ米坂線も、新幹線開業から貨物列車は廃止され、更には温暖化による豪雨災害で長い歴史を閉じようとしています。

厳寒の宗谷本線を行く9600。パシフィックC55に対してコンソリデーションの9600では役不足に感じられますが、列車単位に見合った機関車を使用する事で、石炭の使用量を節約するのが、明治以来続く日本の機関車運用です。

 量産された9600のうち、251両という膨大な数が、大日本帝国陸軍の命令によって中国大陸に渡りました。9600は標準軌間に改軌されて大陸に渡りましたが、日本の敗北と共に、中国に接収され、日本に戻ったものはありません。長い時間が経過したとは言え、侵略戦争によって、多数の犠牲者を出し、中国の人々にも取り返しのつかない犠牲を日本の国が強いたことは忘れるべきではありません。日本の市民から徴兵された兵隊が残忍な殺戮者になったこと、日本の民衆が、他国を侵略しての戦勝のたびに、靖国神社を初めとする神社に繰り出し、提灯行列を行って軍部を礼賛していたこと、国民の支持なしの戦争や侵略は無い事も肝に銘じるべきです。 9600を語るとき、中国に渡った沢山の機関車を思い起こしでいただければ幸いです。

凍てつく大地を踏みしめ、坂を下る宗谷本線の9600。 北海道の炭鉱専用線には、新製購入の9600型や、国鉄からの払い下げなど、多くの9600型が炭鉱専用線でも活躍していました。 炭鉱専用線の9600型は、国鉄無煙化に合わせるようにエネルギー転換の波に飲まれ、炭鉱の閉山と共に姿を消したのでした。

 撮影・写真提供  加藤 潤 横浜市  

 米坂線の記述については、横溝眞一氏の記憶よりました、深く感謝いたします。