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C62の峠越え 函館本線その2

長万部↔小樽という長い道のりをC62クラスの超大型急客機関車が重連で走破するのは、日本の蒸気機関車史上、例のない事でした。

峠越えに向けてボイラーの圧力を上げるC62重連。途中で圧力が下がっては強力機C62でも峠は超えられません。無煙化直前のC62はボイラーの劣化で圧力の上がりにくい個体もあり乗務員を悩ませました。

車両限界に近い高さに迫るボイラーが独特の迫力を醸し出す、C62のサイドビュー。

4フィート8インチの標準軌間であるアメリカのやドイツの機関車が持つボリューム感に少し近付いた雰囲気です。3フィート6インチというナローゲージから来る制約と、進まない軌道強化との限定された条件下で設計製造が続いた日本の蒸気機関車の中で、C62とD52型だけがナローゲージをあまり感じさせない機関車になりました。日本型機関車のイメージから飛び出した存在は、戦時輸送の必要性から生まれたD52から生まれたのでした。

力走するC62。山陽本線の瀬野八本松のように短区間の勾配を登って下る峠ではなく、長万部↔小樽間には長丁場なうえ、四つの25‰の峠が連続しましたから、峠を越して後部補機を走行解放する運用は出来ませんでした。また急客の列車速度では、D51を使用した場合、速度の遅い上り勾配では粘着力でグイグイ登るものの、時速80キロを越える速度になると振動が激しく、乗務員は恐怖を感じる程だったと言われています。シリンダーからの出力をロッドで連動する蒸気機関車では、シリンダーの往復運動に加え、動輪の回転に伴うサイドロッドの上下動、サイドロッドのカウンターウエイトの上下動が激しくレールを叩くため、動輪の大きさが、そのまま蒸気機関車の最高速度の限界を決定していたのです。加えてC62では火室とキャブが2軸従台車に乗っていたので、従台車が1軸のD51とは別物の乗り心地の良さで乗務員には好評でした。

C62重連が奮闘した坂を下る9600の小編成貨物列車。単線、急勾配、急曲線の線区には、9600が似つかわしく見えます。

 函館本線長万部↔小樽間、通称山線は、昭和初期に室蘭本線千歳線が開通して海回りの札幌から道北への鉄道網が整備されるまで、札幌、道北と函館を結ぶ唯一の路線で、大正時代の強力機D50も新製されて直ぐに投入された程の勾配区間でした。D50が優先的に投入されたのは、箱根越えの旧東海道本線であった御殿場線山陽本線の瀬野八本松でしたから、長万部↔小樽の過酷さがよく分かります。

山の駅にはD51が良く似合います。C62が急客を引く長万部↔小樽間でも、普通列車はD51が牽引していました。高速走行さえ求めなければD51は最も頼りになる機関車でした。

単機で普通列車の客車を従え、登攀するD51。速度さえ過度に求められなければ、楽楽と坂を登るD51は全国の勾配区間で客車列車にも活躍しました。

 

25‰勾配はD51にとっても難所でしたが、D51は止まらない機関車として、乗務員から信頼されていました。C62の動輪3軸に遊輪4軸に対して、D51は動輪4軸に遊輪2軸でしたから、勾配を登る際には圧倒的にD51が有利なのでした。

貨物列車を従えて奮闘するD51。冷蔵車が連結されて、北海道の産物の豊かさが伝わります。太平洋戦争後の復興期には、空襲で破壊された内地の都市部に向けて、食料から材木、石炭まで、大量の資材が運ばれました。水と石炭と人材さえあれば輸送が成り立つ蒸気鉄道だからこそ、北海道での石炭の増産で輸送を支えられたのです。

雪がC62重連の行手を阻んでいます。機関士と機関助士、前補機と本務機が力を合わせて登攀した峠の歴史は、昔話のひとつになってしまいましたが、彼等が技術と経験と心配りで踏破した道のりは、忘れ去るどころか、今を生きる我々に勇気を与えてくれるように思われます。

多くの鉄道員が苦労して支え、幾多の蒸気機関車が奮闘した長万部↔小樽間の函館本線も、新幹線開業により、長い歴史を閉じようとしています。

 撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市