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糸崎機関区のC59、C62

日本最強の大型パシフィックC59は戦争に翻弄された機関車でした。

糸崎機関車で休むC59戦後型。せり出した煙室がボイラーの長さを感じさせます。戦後型はC59としての完成型で優れた機関車でした。

 C59はC53の後継機として計画、生産されましたが、東京・下関・釜山を経由してヨーロッパまでをつなぐ国際列車であった急行1列車や特別急行列車富士で華々しい活躍をしたC53とは違い、日中戦争、更には太平洋戦争と悪化の一途を辿る時代に登場し、戦前の特急機としての活躍は、贅沢は敵!の世相の下で限られたものでした。

 計画段階から最高のメカニズムと最高の資材を投入して登場したC53に比べ、C59の生産時は高品質の圧延鋼板は軍需に回され、新製の機関車でありながら、ボイラー膨張事故など、機関車としては不名誉な事件も起こしました。それでもC59は日本の蒸気機関車の中で最も長いボイラーを生かし、戦時で輸送量が増大した東海道山陽本線で、整備不良のため不調機の多発したC53に替り、日本の大動脈を動かし続ける大任を果たし続けたのでした。

C59戦後型のキャブ、密閉型と言われるが、テンダーとの連結面には大きな開口がある。

 

 太平洋戦争が終了し、貨物優先だった軍事輸送が無くなると、旅客用機関車の増備が求められ、C59の戦後型が生産されました。そしてC59戦後型の生産が政府の財政難で中断された時に、C59の仕掛品の足回りを活用し、D52からボイラーを転用して生産されたのが、C59とともに、戦後の旅客輸送に活躍したC62でした。

 これらの機関車の投入で、戦争中の整備不良で状態が厳しくなっていたC53は淘汰され、戦前型のC59のうち、ボイラーに不具合のあったものは、新ボイラーに積み替えられ、本来の性能を発揮して活躍したのです。

糸崎機関区で待機するC62。 

C59が、設計段階から戦時の影響を受け、特殊鋼を極力使わず、整備が楽で丈夫で長持ちという存在であったのに比べ、C62型は、乗務員に優しい大出力の機関車、アメリカ式の発想の機関車でした。 機関助士を二人乗せて交替で投炭するといった発想で石炭を節約するのが良い運転だった日本にとって、革命的な機関車でした。

長編成を軽々と引くC62

 C53を初めとした日本の高性能機が、東海道山陽本線専用機であっても、軸重16トンの規制に縛られたのに対して、アメリカの蒸気機関車は、D51の倍の軸重30トン以上、使用圧力30気圧の高温高圧ボイラーで、戦時輸送に対応していたのでした。日本では鉄道は兵器と猛々しく叫ばれながら、東海道山陽本線ですら軌道強化は進まず、鉄は先ず兵器に使われたのです。C62生産に当たっては、自動給炭機の装備を始めとして、灰落しを省力化する動力揺れ火格子、機関車の重心を下げる鋳造の2軸従台車、走行抵抗を減らすローラーベアリングの従台車、テンダー台車への採用など、新しい技術が盛り込まれました。

巨大なボイラーを搭載しても、C59と重心がほぼ変わらないC62。ハドソンの利点が生かされました。

 

C59の増備と、C59戦前型の改修、更には新鋭のC62の投入で一気に戦後の東海道山陽本線の輸送力は改善しましたが、C59、C62を待っていたのは電化による配置転換でした。と言うのは、戦争中は軍部が空襲の破壊からの復旧の遅れを嫌って、意図的に電化を遅らせていたからでした。戦後復興が軌道に乗り始めると、電化は東海道を西進し、ついには特甲線専用のC59、C62の活躍の場は、帝国海軍ゆかりの呉線のみとなったのでした。

貨物列車にはD51も活躍した呉線戦艦大和建造の資材を運んだのも陸路は呉線でした。

 C59、C62が火を落として数年後、糸崎機関区も廃止になりました。C53が下関↔釜山連絡の特急富士を引いた頃、釜山から乗客を引き継いだ、朝鮮総督府鉄道の急行、ひかり、のぞみの名が今は新幹線に残るのみです。

  撮影 写真提供 加藤 潤 横浜市