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溶鉱炉に消えた汽車

京浜工業地帯の製鉄所では、数多くの蒸気機関車が働いていました。蒸気機関車時代の終期に稼働していた機関車は、製鉄所専用に製造された機関車で、製鉄所から外に出ること無く、 消えていったのでした。

黙々と資材を積んだ貨車を押し引きするC型の産業用機関車。昭和16年川崎車両製の機関車です。太平洋戦争中は、京浜工業地帯の爆撃にもあったはずですが、20両以上が鶴見や川崎の製鉄所で働いていました。

構内の端の植込みだけが、この機関車と共にあった植物でしょうか。煤と埃と鉄の匂いだけに囲まれて、稼働していた機関車を、のびのびと田畑を見下ろす築堤や、山の緑の中を走らせてやりたかったと、今更ながら思います。

工場で働く方々の傍らを通り過ぎて行きます。 営業線を走る機関車なら、子供に手を振られる事もあったかもしれませんが、工場の中では、償却する設備の一部にしか過ぎません。鉱石や鉄屑、石炭やコークスを運び込み、やがて老朽化して、自らも鉄屑として溶かされるだけの機関車でした。

機関車の形態としては、短い車長に小さな動輪を履き、いかにも小回りの効きそうな設計です。 サイドタンクを前に伸ばして積載する水を増やし、フロントデッキを伸ばして前輪を付け、キャブの後ろの炭庫を延長して従輪を追加したら、相当まとまった形になり、地方鉄道向けの機関車にも使えそうです。折角の優雅な2つの丸いドームも、鉄道利用客に見られる事もなく、人知れず稼働していたのが勿体ないような機関車でした。 河原の砂利採り線に車輪を軋ませながらトラの車列を引取りに現れ、少しばかりの煙を残して機関車が去った後は、原っぱで遊ぶ子供たちが、駆け回ってトンボを追う、そんな情景にさえ似合う機関車です。

製鉄所では、明治の古典機関車も大改造して使用していました。それらは、使用された鋼材や機構もまちまちで、昭和初期には鉄屑となり、こうした産業用専用機が設計生産されました。この機関車の誕生前に、鉄道省では小型蒸気機関車としては画期的なC12を既に使用開始していました。ですから、この機関車の設計には、日本の蒸気機関車生産が、経済性と整備の合理性を確立した以降の機関車としてのまとまりが感じられます。

巨大なクレーンのたもとに貨車を取りに来ています。カスミのかかったような空気感が漂う製鉄所の荷揚げ場です。

鉄の合間を走る産業用機関車にとっては、毎日の仕事を共にする乗務員や整備員のいたわりだけが、配属されてからの機関車の生涯の中で、唯一の人間との関わりだったかもしれません。

 

 撮影 写真提供  加藤 潤 横浜市