東北本線完全電化以降、国鉄の無煙化計画は亜幹線から支線へと及び、ほとんどの旅客列車がキハに置き換わっていた陸羽東線でも、貨物列車のディーゼル化は間近に迫っていました。 余命幾ばくもないC58型は、そんな状況の中でも峠に立ち向かい、力続く限りの活躍を見せたのでした。
峠の駅、堺田駅で解放された前補機のC58が、宮城県側の麓に帰るべく待機しています。
無煙化直前になっても、陸羽東線は地味なC58だけの運用でしたから、訪れるSLファンの姿も少なく、C58は淡々と仕業をこなしていました。のどかな田園地帯、壮大な奥羽山脈、更には渓谷沿いを通っていたのです。
夕暮れが迫ってもC58の活躍は続きました。
やがてC58型の全廃が決まり、華やかに飾り付けられたサヨナラ列車が運行され、長い間、ありがとうの言葉が、乗務員と機関車に贈られました。見送った人々は、太平洋戦争後、焼け野原となった東京や仙台に復興資材を運び、買出しの乗客で満員の列車を運行した蒸気鉄道の歴史を、振り返る事も無く、安くて便利な石油万能の時代を信じていました。
豊かな田園地帯を疾走するC58牽引の貨物列車。C58型は、8620よりわずかに小径の動輪を持った機関車なので、D51型より速度を出せました。陸羽東線からC58型の消えるころ、太平洋外国航路はたいへん盛んになりましたから、宮城の塩釜港からは輸入飼料や石油燃料が、また、陸羽東線沿線からは石巻の製紙工場へと紙パルプの原料が運ばれました。 太平洋沿岸地域の工業地帯や都市は、安価な原油や輸入石炭を陸揚げして直ぐに使えることから発達しました。とりわけ首都圏のような大都市は、東京湾内の火力発電や、遠方の原発からの電力供給で支えられて来ました。 その化石燃料が高騰し、核廃棄物問題が未解決な今、ドイツのような中規模都市で再生可能エネルギーを活用していく社会への転換が強く求められています。 また、再生可能エネルギーを地産地消する中規模都市を全国に分散することは、日本に壊滅的影響を及ぼす、南海トラフや首都圏震災への抜本的対策、それこそ唯一の対策です。
降りしきる霙の中、峠の激闘を終えて静かに山を下るC58重連。
便利に早く快適に、更には全てに多消費でモータリゼーションにどっぷり浸る、アメリカナイズされた社会を求めてきた日本、そのアメリカが格差や教育の荒廃で病んでいる現在、理想としてきたアメリカの混乱を、丸ごと日本が踏襲すべきではありません。日本がこれからの脱炭素社会への転換の中で、日本独自の優れた良さを発揮すれば、アメリカ現在の混乱から脱出する際の糸口にすらなり得るでしょう。本物の同盟関係とは、奴隷のように追従するのではなく、歴史の浅いアメリカが、市場としてではなく、日本の社会に価値を見出すような国家としての構造を持つ事です。
僅かな待ち時間でも、乗客を風雪から守るために、駅舎の向いのプラットフォームに設置された待合室。峠の駅の気配りです。
陸羽東線をC58が走っていた頃、日本人は今よりも貧乏で不便な生活をしていたけれど、真面目に働けばちゃんと生きていけるという希望は持っていたのでした。
撮影・写真提供 加藤 潤 横浜市